清原和博さんは、日本の元プロ野球選手で、特に長打力で知られ、日本プロ野球史上において最も印象的なホームランヒッターの一人です。
彼は1967年に大阪府で生まれ、高校時代から非凡な才能を示しました。プロ入り後は西武ライオンズと読売ジャイアンツで活躍し、多くのホームランを記録。彼の力強い打撃は多くのファンを魅了し、数々の記録を打ち立てました。
引退後もその名前は日本野球の歴史において色褪せることなく語り継がれています。
そんな彼の年俸についても気になるところです。この記事では、清原和博さんんの現役時代の年俸について詳しく調査し、まとめました。
さあ、見ていきましょう!
清原和博・プロフィール(WiKi)
名前 | 清原和博 |
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生年月日 | 1967年8月18日(56歳)【2024年7月27日現在】 |
国籍 | 日本 |
出身 | 大阪府岸和田市 |
身長 | 188cm |
体重 | 104kg |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手 |
清原和博さんは1967年8月18日、大阪府岸和田市で生まれました。
家庭は電器店を経営しており、父は阪神タイガースのファン、他の家族は読売ジャイアンツのファンでしたが、清原自身も巨人ファンとして育ちました。1974年に小学校に入学し、2年後に岸和田リトルリーグに入団、小学3年生で身長155cm、遠投70mを記録するほどの体格と才能を持っていました。
中学時代には岸和田シニアリーグに移り、キャプテンとして関西シニアで優勝を果たしました。
高校はPL学園を選び、清原の野球キャリアはここで飛躍的に伸びました。彼の高校時代は全国的な注目を集め、数多くの名勝負を演じたことで、その後のプロ入りの道が確実なものとなりました。
母親は奈良県出身で、天理高校への進学を望んでいましたが、最終的には清原自身の意志でPL学園を選んだことで、その後の野球人生が大きく開けることとなりました
清原和博・所属チームの経歴
所属チーム
1986(19歳) | 西武ライオンズ |
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1987(20歳) | 西武ライオンズ |
1988(21歳) | 西武ライオンズ |
1989(22歳) | 西武ライオンズ |
1990(23歳) | 西武ライオンズ |
1991(24歳) | 西武ライオンズ |
1992(25歳) | 西武ライオンズ |
1993(26歳) | 西武ライオンズ |
1994(27歳) | 西武ライオンズ |
1995(28歳) | 西武ライオンズ |
1996(29歳) | 西武ライオンズ |
1997(30歳) | 読売ジャイアンツ |
1998(31歳) | 読売ジャイアンツ |
1999(32歳) | 読売ジャイアンツ |
2000(33歳) | 読売ジャイアンツ |
2001(34歳) | 読売ジャイアンツ |
2002(35歳) | 読売ジャイアンツ |
2003(36歳) | 読売ジャイアンツ |
2004(37歳) | 読売ジャイアンツ |
2005(38歳) | 読売ジャイアンツ |
2006(39歳) | オリックス |
2007(40歳) | オリックス |
2008(41歳) | オリックス |
息子の清原省吾選手の公式Instagram
清原和博さんは幼少期から熱烈な読売ジャイアンツ(巨人)ファンであり、家族も巨人か、父が応援する阪神タイガースのいずれかへの入団を望んでいました。
1985年のドラフト会議では、巨人は桑田真澄を優先し、清原さんは阪神を含む複数の球団から1位指名を受けましたが、最終的に西武ライオンズが交渉権を獲得。この出来事は「KKドラフト事件」として知られ、ドラフト後の記者会見で清原の涙が大きな話題となりました。
母親の励ましを受け、清原さんは巨人への入団を断念し、西武でのプロ生活を開始する決意を固めました。これが清原のプロ野球キャリアのスタートとなり、後に彼はその才能を存分に発揮して日本野球界に大きな足跡を残すこととなります。
清原和博さんは高校卒業後、すぐに西武ライオンズに入団しました。
彼のルーキーイヤーは1986年で、オープン戦では苦労しましたが、プロ初出場となる開幕2戦目でいきなり本塁打と初打点を記録し、野球界に強烈な印象を残しました。
その後も彼の活躍は続き、初スタメンからわずか数週間で打順が5番に上がり、前半戦を打率.252、11本塁打で終え、オールスターゲームではファン投票1位で選出されました。
オールスターゲームでの活躍後、後半戦だけで20本塁打を記録し、高卒新人としては異例の月間MVPを受賞しました。さらに、シーズン通じて31本塁打を放ち、高卒新人の本塁打記録を更新し、新人王に輝きました。
清原さんのこの破格の新人シーズンは、彼が後に野球界で果たす役割を予兆させるものであり、日本プロ野球史における伝説的なスタートとなりました。
清原和博さんは1997年、巨人で開幕から4番を務め、開幕3試合目に移籍後初本塁打を記録しましたが、その年は152三振を記録し、リーグ新記録を樹立しました。
シーズン全体としては32本塁打と95打点を記録し、30本塁打超えは巨人の右打者としては原辰徳以来でした。1998年には打撃フォームを大幅に改造し、打順も3番に配置されましたが、故障に苦しみながらも23本塁打、80打点を記録しました。
翌1999年は怪我に悩まされ、13本塁打にとどまりました。2000年は開幕を二軍で迎えましたが、復帰後は16本塁打を記録し、チームのリーグ優勝に貢献しました。
2001年は打率.298、29本塁打、121打点を記録し、長年の成績不振から一転して好成績を残しました。2002年には開幕好調でしたが、故障が再び彼を襲い、活躍が制限されました。
彼のキャリアは故障による中断が多く、プロ入り後の期待に応えるシーズンと故障に苦しむシーズンが交互に訪れる厳しいものでしたが、野球への情熱と打撃技術には多くのファンが魅了され続けました。
清原和博さんは巨人からの戦力外通告を受けた後、オリックス・バファローズへの移籍を決めました。
この決断は、かつての西武ライオンズとの激しい優勝争いを指揮した仰木彬からの心温まる誘いによるものでした。仰木は清原に対し、大阪での野球人生の締めくくりとして、彼の潜在能力を信じ、大阪のファンに恩返しをするよう呼びかけました。
仰木のこの情熱的なアプローチと、彼が示した強い信念に感動した清原は、オリックス入団を決意。仰木の突然の死後も、彼の遺志を継ぐかたちでオリックスへの移籍が実現しました。
オリックス入団後の清原は、膝の治療に専念しながらも、ファンとの繋がりを大切にし、チームの勝利に貢献しようと努めました。
しかし、故障は彼のパフォーマンスに影響を与え、プレイの機会は減少。それでも彼は、プロ野球生活を全うし、大阪での最後の花道を飾ることに情熱を注ぎました。
清原さんのオリックスでの時間は、彼の野球キャリアの中でも特に感慨深いものであり、彼が関西で過ごした日々は多くの野球ファンにとって貴重な記憶となっています。
息子の清原省吾選手の公式Instagram
清原和博・年俸推移/現在の年俸
年俸推移
1986(西武ライオンズ) | 600万円 |
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1987(西武ライオンズ) | 2200万円 |
1988(西武ライオンズ) | 3000万円 |
1989(西武ライオンズ) | 5300万円 |
1990(西武ライオンズ) | 6800万円 |
1991(西武ライオンズ) | 1億円 |
1992(西武ライオンズ) | 1億円 |
1993(西武ライオンズ) | 1億2800万円 |
1994(西武ライオンズ) | 1億6600万円 |
1995(西武ライオンズ) | 2億5000万円 |
1996(西武ライオンズ) | 2億4000万円 |
1997(読売ジャイアンツ) | 3億6000万円 |
1998(読売ジャイアンツ) | 3億3000万円 |
1999(読売ジャイアンツ) | 3億3000万円 |
2000(読売ジャイアンツ) | 2億8000万円 |
2001(読売ジャイアンツ) | 3億円 |
2002(読売ジャイアンツ) | 4億5000万円 |
2003(読売ジャイアンツ) | 4億5000万円 |
2004(読売ジャイアンツ) | 4億5000万円 |
2005(読売ジャイアンツ) | 3億6000万円 |
2006(オリックス) | 2億5000万円 |
2007(オリックス) | 2億5000万円 |
2008(オリックス) | 1億5000万円 |
槙野智章・生涯年俸
清原和博さんの生涯年俸は、合計で約51億1300万円
まとめ
清原和博さんの輝かしい野球キャリアは、その年俸の推移にもはっきりと表れています。
新人時代の控えめな額から始まり、彼の圧倒的なパフォーマンスとプロ野球界での地位確立に伴い、年俸は急速に増加しました。最高時には4億5000万円に達し、日本のスポーツ界でも類を見ない高額な年俸を得ることになりました。
清原さんのストーリーは、野球だけに留まらず、その人生全体が多くのファンに感動を与え、インスピレーションを与えてきました。彼のキャリアを通じて、日本野球の変遷と星の興亡の歴史が刻まれており、清原選手の名は永遠にスポーツ史にその名を刻むことでしょう。
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